珈琲を一杯。明日も珈琲を一杯。
いつの日だっただろうか。東京でこんな会話を耳にした。
誰「いやー,ノロウイルスで一週間 珈琲飲めませんでした。」
誰「、、一日でも珈琲飲めないなんてかわいそう。」
わかる。文字や映像のない世界を想像してみると気持ちがわかる。
つまり珈琲は都市におけるある種のメディアなのだろう。
・ブルーボトルコーヒーの珈琲をいただく。
一般的なコンビニより広いであろう店内では、数種類の珈琲や珈琲の記憶を生活に定着させるアイテムや、珈琲とともに消化器官に流し込む甘味などが購入できる環境が展開されていた。
・やたら広い空間、珈琲、取り巻く我らヒューマンの創造。
ガラスのカップでブレンドコーヒーを飲みながら、ガラス張りの店内、ふと思い出すことがあった。
そう、キン肉マン内のキャラの重要な一員であるラーメンマンがピラミッドパワーを見出す話だ。
「ラーメンとピラミッド、関係なくないですか?」といった指摘はこのドラマプラクティスの前ではあまり重要ではないように思う。
このラーメンマンの件のように物語を発生させる側と受け取る側の間にはいつも未知の溝があり、この溝が楽しめるかどうか、なのだろう。
日本にもピラミッドがあることも思い出した。